というメモがscrapboxにあって、
なんとなくイメージは出来るけど何を閃いたんだろう、過去の自分。
というメモがscrapboxにあって、
なんとなくイメージは出来るけど何を閃いたんだろう、過去の自分。
ホモサピエンス全史あたりからか、
どこの本屋に行っても何かしらの全史がポコポコと出ている。
読書猿氏の独学大全もかなり売れているようだ。
世の中全体から学びの波動を感じているけれど、
一方で「一冊の本を読み切れば、これで全てが身につくんだぜ」
という欲望自体はファスト教養とあんまり変わらんなとも思う。
嫌味な見方かもしれないけれど。
ここ1、2週間の寒暖差にはすっかり参ってしまって、
睡眠にも悪い影響が出て非常に難儀した。
Woldがどうも活動再開したらしい。
PV、ではないか(一切プロモーション的な価値無し)。
インターネットのゴミ感が全面に出ていて、聴きたい気持ちに全然ならない。
やってて何か楽しかったり前向きな気持ちになったりするんだろうか。
部屋の掃除を進めたので、残りわずかだけど
アウトプットもコツコツ進めたい。
前から感じていたけれど、
カットで割るところと前のカットを残したりと、細かい。
今回のMVも色彩が派手で、ややもすると目にうるさく感じられるところを、
動的な設計が巧みで見る人を疲れさせない丁寧さだった。
AIアート(この言葉もなんだかだけれど)が最近流行っているけど、
EMS synthiやBuchlaを期待していたら、
MOOGだった、みたいな妙な感覚になる。
それでクラシックを弾いてみるって、どうなんだ。
文章から何かを生成してそれを発表するときに、
大体の場合「生成した文章はこれで、そして何かはこれです」という、
大喜利みたいな感じでプレゼンテーションする場合が多いようだけれど、
それって実際単なる大喜利なのでは?
AIがどうとか全然関係ないのでは?とも思ってしまう。
それに関連して、数年前から妙に言葉の力が強い世の中だなと思っていたけれど、
その感覚はどんどん強くなっていっている。
(川村元気、佐藤雅彦率いるc-projectが作った『どちらを選んだのかはわからないが、どちらかを選んだことははっきりしている』を見た時にかなり強く感じた)
「花束みたいな恋をした」もサブカルがどうというよりも、
ひたすら言葉言葉だった。
現実が言葉言葉なのに、
わざわざお金を払って言葉言葉っていうのが、僕にはよく分からない。